村史紹介

村史の販売

◆定価

5,000円(村史・資料編)
※赤井川村の住民の方には無料で配布いたします。
(世帯へ1冊の配布)

◆購入方法

教育委員会社会教育係でお求めいただけます。

【郵送の場合】
 現金書留に村史代金、購入部数・住所・氏名・電話番号をお書きいただいたものを一緒に送付してください。着払いにて発送いたします。

◆お問い合わせ

教育委員会社会教育係
TEL 0135-34-6211
Mail kyouiku3@akaigawa.com

赤井川村のあゆみ

赤井川村の歴史の一部を抜粋してご紹介します。

太古の時代

黒曜石の産地

 赤井川村は北海道の有名な黒曜石の原産地です。
 白滝、置戸、十勝三股と並び四大産地と言われています。黒曜石は火山から吹き出した溶岩が急に冷やされて出来た火山のガラスです。今から一万年から一万五千年前のことです。まだ人間が土器を持つ前のことで、石器が道具の頃です。赤井川で取れた黒曜石は北はサハリン、大陸まで、南は青森県までの広い範囲に運ばれ使われていることが分かっています。赤井川へ黒曜石を直接取りに来たのか、交易によって手に入れたものか分かりません。勿論村のあちこちから沢山出土しています。開拓当時から農作業で手足に怪我をしたと伝えられています。

明治時代

大江村赤井川原野の開墾

 赤井川のこの地を最初に探検した人は、大江の開拓責任者の山口県人粟屋貞一と従者の井関百合蔵であったといいます。明治15年のことです。
 そして最初に入地したのは、新潟県人の長谷川友太郎だといわれています。明治21年頃には既に山道の辺りに無願入地していました。
 その頃人々からこの地は大江村赤井川原野、大江村近傍などと呼ばれていました。
 明治27年5月3日付けで余市郡山碓町の林長左衛門ら(余市開墾株式会社)と余市郡琴平町の徳光大次郎ら(赤井川農業合資会社)が赤井川の土地の貸付を受けて、戸数42戸が開拓のため入地し、人口は250人ほどあったといいます。
 更に御用林の解除に伴い東京の船越衛や前田正名がガンピタイに、余市の榎本武一郎が池田沢に、札幌の植村澄三郎が赤井川にと続々と貸付を受けるものが増え、開拓が進んだと伝えられています。

大正時代

カルデラ盆地の発見

 赤井川村は今日、北海道唯一の「カルデラ盆地」として景観を誇っています。そのカルデラを最初に発見したのは、赤井川尋常小学校の訓導伊藤従理であることを知る人は多くありません。それは彼が「赤井川はカルデラでは」という疑問を地学学会誌に照会したことに始まります。この手紙を帷子次郎(当時東京大学地質学科4年)が目にして、伊藤従理との赤井川の実地踏査を行います。大正12年9月のことです。丁度、関東大震災の直後で東京は焼け落ち、学校は休業中だったそうです。2人の調査は3日間にわたります。1日目は池田方面を歩き地層を、2日目は落合や轟鉱山を探り地質を、3日目は山梨準高原から小樽奥沢水源地までを巡り外輪山を見たといいます。山梨準高原で岩石を1戸採取して持ち帰りました。
 その後、帷子は大正15年に学会誌「地理学評論」に「北海道赤井川カルデラについて」という論文を発表します。この論文では赤井川本村を取り巻く大黒山、元服山、山梨準高原を第二カルデラ(洪積世末)と呼び、余市のシリパ、稲穂峠、阿女鱒岳、小樽の赤岩に囲まれた地域を第一カルデラ(第三紀末~洪積世初期)としています。このカルデラの面積は約78.5平方粁(k㎡)で洞爺湖はもとより支笏湖よりも大きいものです。この論文は道内の地学研究者の大反響を呼びました。ともあれ、赤井川がカルデラであることを世間に広めることになりました。

昭和時代

昭和初期の赤井川農業の課題

 昭和初期の赤井川農業の有様を伝えるものに産業計画実施要目があります。
 本村は開拓以来入地が進んで、農家戸数525戸、耕地2千5百町歩となりました。しかし年々衰退して、昭和初期には戸数、耕地ともにその6割程度に激減してしまいます。
 昭和5年、北海道農会が農業経営の改善を提唱しはじめます。
 特に窮地にある赤井川村を指定し、困って来る原因を明らかにし、それに対応する方策を明確にしようとしました。それが赤井川産業計画実施要目です。10の目標と15の実施要項によって示されました。
 それによると村の衰退の主たる原因は地力の消耗にあるとしました。その改善には地力の回復を第一に挙げます。自給肥料の補給として反当たり百貫の堆肥、緑肥作物の間作・混作、酸性土壌の矯正を示しました。また、経営の改善のためには品評会を開催し、除虫菊・馬鈴薯・蔬菜を奨励します。更に移民50戸を入れて民有未開地を開発し、自作農30戸を創設するよう指示しています。この産業計画を実現するため農事実行組合を各区(22区)毎に組織し活動を促しました。しかしこの後、冷害や水害が続き、なかなか計画通りには行きませんでした。

赤井川大火

 火災も発生します。昭和33年7月28日には神社の社務所が焼失し、同8月24日には本念寺を全焼します。しかし本村最大の火災は赤井川大火です。昭和41年3月8日の午後6時頃、村の中心部から出た火は、折からの南西の風にあおられ火勢つのり、村の消防団や住民の必死の消火活動も空しく拡がります。余市・仁木両町の消防の援助を仰いでも2時間にわたって商店街を延焼します。罹災者は19棟27世帯で93人となり、被害総額は3千5百万円余りとなりました。
 この災害では村議会は災害対策協議会を設置し対策を進めました。先ず被害者の被災実態を調査する、応急の仮設住宅8戸を建設する、世帯厚生資金の借入をはかり、生活保護の要否をみる、住宅店舗の設備と運転資金の融資をはかり、税金の減免・延納の申請など迅速にことを運ばなくてはいけません。そして村内外からの見舞金を罹災者に配分します。現在では毎月8日、この日の災害を忘れないためにサイレンを鳴らし注意を促しているのです。

郷土芸能「カルデラ太鼓と赤井川音頭」の誕生

 昭和56年9月4日、郷土芸能カルデラ太鼓の保存会(会長 小田砂一)が誕生します。これまで村民は喜怒哀楽を彩る郷土芸能がありませんでした。それは、それほど余裕のない厳しい生活であったとも言えます。開村80周年を機として、村に残る者も去る者も生まれ育った故郷の山や水を生涯心に持ち続けるための郷土芸能を作りたいという願いからです。
 カルデラ太鼓は札幌の作曲家桑山眞弓の作曲・作調です。80年を歩む故郷赤井川を「黎明」「開拓」「未来」の三章から編み、その雄大さ、繊細さ、切れの良さで見事に表現しています。昭和56年9月15日に発表会が行われました。この日集まった聴衆は会場となる都中学校、生活改善センターを併せて300人を越えたといいます。
 更に翌57年には赤井川音頭・カルデラ慕情を故郷の歌に加えることになります。両曲とも作詞佐々木逸郎、作曲桑山眞弓で、しかも振り付けもつきました。第一回カルデラの味覚まつりの芸能発表会では100人踊りを披露し、沿道を埋めた観衆から喝采を浴びました。
 昭和58年1月、田楽神楽太鼓を発表します。姫に身を替えた田の神と農民との祭事にまつわる男女の心情を太鼓のリズムで表現しています。

平成時代

通年型リゾート「キロロ」

 昭和40年代に入り、社会経済の急激な変動で農林業を中心とした本村はかつて経験のない人口流出がはじまります。人口の減少はこれまでの農林業中心の産業振興のみでは解決が出来ないと考え、昭和59年策定の「赤井川村総合計画」の中に後志観光連盟に加入し広域観光の一角を形成するよう施策を立てます。
 同62年6月、村と日本楽器製造株式会社(ヤマハ株式会社)とで「赤井川村森林レクリエーション協議会」を組織しリゾート開発の取り組みを始めます。小樽・札幌に隣接する朝里岳(1280m)の西部の国有林を開発するという計画です。
 以来、ヤマハ北海道リゾート開発株式会社を設立し、第三セクター赤井川森林レクリエーション開発公社(株式会社キロロ開発公社)を設立しました。そして林野庁で推進する「森林空間総合利用地域」の北海道第一号となったのです。
 平成3年12月、スキーワールド、マウンテンセンター、マウンテンホテル、スノーモービルワールドがオープンしました。
 この新観光産業の導入によって、村の人口は1543人と増加し、過疎に一定の役割を果たしました。村税は4倍となるなど村政に大きな影響を与えました。